こちらのページでは収蔵作品の中から「工芸」の作品をご紹介いたします。
備中国(岡山県西部)では、平安時代末から鎌倉・南北朝時代までの数百年間、青江(現在の倉敷市)を中心に刀剣の制作が繁んに行われた。これを青江鍛冶という。康次という銘は、この太刀の制作者で古青江派を代表する刀工・康次の名前から付けられた。
青江派の刀剣の中で最も長く、身幅も広くて豪壮なこの太刀は、大・小の模様を入り交ぜた刃文も華やかである。刀身には後の時代の所持者の信仰を表わす意味で、表に不動明王と倶利迦羅竜、裏に大日如来と素剣の彫刻が彫られた。
織田信長から将軍の座を追われた室町幕府十五代将軍足利義昭が、力を借りようとして、薩摩の太守島津義久に贈ったものと伝えられている。江戸時代になって島津家の家紋入り糸巻太刀拵が付けられ、儀式の際に使われた。
了戒は鎌倉時代末期の山城国の刀工で、師の来国俊に見込まれてその婿になったと言われる人物である。了戒の子供、もしくは弟子に了久信がおり、2人の製作年代は接近している。また、了久信の孫が初代信国であると伝えられている。
了戒の作る太刀は、姿が優しく、小沸がついた美しい地金をもち、鍛えは小板目に柾目が交じり、直文の刃文を得意とする。
雲錦模様とは桜花と紅葉を配した模様である。京の言葉遊び「吉野の山の桜は雲かとぞ見え、龍田川の紅葉は錦のごとし」からの引用だという。
この作品は、幕末の陶工で京焼の名手である仁阿弥道八が作った直径41.3cmの色絵桜紅葉文大鉢にならったものであろうが、魯山人は単なる写しに終わらせていない。
収蔵作品は作品保護のため通年展示されているわけではございません。