収蔵品「書」

こちらのページでは収蔵作品の中から「書」の作品をご紹介いたします。

収蔵作品は作品保護のため通年展示されているわけではございません。

後陽成天皇「宸翰御消息」

後陽成天皇宸翰御消息(重要美術品)桃山~江戸初期(天正19年~元和3年)

 桂離宮は、八条宮智仁親王が別荘として、京都西部の桂川西岸 桂の里に創立した。造営が始まったのは、元和2(1616)年あるいは元和6(1620)年頃と言われている。

 智仁親王がその造営に竹林を用いることの是非を兄・後陽成天皇にたずねたところ、天皇は竹林について博識の鳥居大路に御下問になり、同人より桂の里に相応しい風情との奉答を受けた。本文書は天皇がそのことを智仁親王に伝えたもの。

「竹には里 可然之由 鳥居大路申候也」
			美景九烏(花押)
			式部卿宮 吟案下
後陽成天皇「宸翰御消息」

藤原定家藤原定家自筆書状平安末期~鎌倉初期

鎌倉時代前期の歌人で小倉百人一首を選定した人物と言われる藤原定家。これは定家が手紙を書き、受取人が質問に答えて行間に返事をしたため、定家のもとに送り返したものと考えられる。

平安の三蹟

平安初期以降、書の上手な人を能書といった。小野道風・藤原佐理・藤原行成の三者は平安中期の能書で、「平安の三蹟」と称される。このうち当館には藤原行成の作と伝わる書がある。

伝・藤原行成「猿丸集断簡」

伝・藤原行成猿丸集断簡(重要美術品)平安中期

猿丸集切

これは、伝説上の人物である猿丸太夫の私家集『猿丸太夫集』の断簡で、「猿丸集切」と称される。料紙に淡藍の漉染紙と素紙との二種類あることが知られており、(どちらも金銀の揉み箔を散らしている)本断簡は後者にあたる。 筆跡は優秀で、古くから藤原行成(972~1027)と伝えられている。

 

人のいみしうあ多那りとの三
いひてこゝろ爾いれぬ介志支那
希れ八われも那爾可八能介ひ
支て有希れ者をむなのうらみて
者へる爾
※まめ那れとな爾所者夜けてかる可や能み多 れてあれとあしけくもなし

 

※〈和歌の解釈〉まじめであるけれど、それの何が良いというのか。刈り取った萱が乱れて置いてあるように、恋に乱れる状態であるのも悪くはないではないか。

寛永の三筆

近衛信伊・本阿弥光悦・松花堂昭乗の三者は、日本書道史における近世の幕あけと位置づけられ、「寛永の三筆」と称される。(※近衛信伊は寛政以前に亡くなっているので、烏丸光広と入れ替えられることもある。)当館には三者の書がそろっている。

近衛信尹和歌安土桃山~江戸前期

〈釈文〉おもひかね いもがり
    ゆけば 冬の夜の
    河かぜさむみ 千どりなく
    なり

 

〈解釈〉思いに耐えられず、愛しいひとの許へ行けば、冬の夜の川風が寒くて、千鳥が鳴いている……冬の夜のひとの心風寒くて、女がしきりに泣いているようだ。

紀 貫之の歌『金玉集冬(三十五)』より

本阿弥光悦和歌江戸前期

〈釈文〉謙徳公
    あはれともいふ可
    人はおもほえで
    身の徒に成ぬ
         可哉

 

〈解釈〉私のことを哀れだと言ってくれそうな人は、他には誰も思い浮かばないまま、きっと私はむなしく死んでいくに違いないのだ。

謙徳公の歌『小倉百人一首』より

幕末の三筆

平安初期以降、書の上手な人を能書といった。市河米庵・巻菱湖・貫名菘翁の三者は幕末を代表する能書で、「幕末の三筆」と称される。このうち当館には市河米庵と貫名菘翁の書がある。

市河米庵天寿 寿山幕末(安政4)年 1857

 市河米庵【1779(安永8)年~1858(安政5)年】は、儒学を学ぶとともに書に専心。北宋の米芾(元章)に私淑し、米庵と号す。さらに晋・唐・明・清の書を学ぶ。筆力の強い書は、当時米庵流と言われ広く流行した。
 天寿とは天から授かった寿命。寿山とはめでたい年のこと、あるいは長寿のたとえである。米庵が亡くなる前年、78歳の時に書いた力強い作品である。

貫名菘翁杜甫の詩江戸後期(安政5~文久3年) 

江山如有待 花柳更無私

〈釈文〉江山 待つこと有るが如し、花柳 私無くを更にす。

〈解釈〉傍に横たう都江(岷江)や宝資山をみると自分がくるのを待っていてくれたようであり、花も柳も私心をもたずに私に其の美を賞玩させてくれる。


湛湛長江去 冥冥細雨来

〈釈文〉湛湛として長江去り 冥冥として細雨来る。
〈解釈〉長江は水を満々と湛えてながれ、細かな雨が暗くうっとうしくと降ってくる。


雨荒深院菊 霜倒半池蓮

〈釈文〉雨は荒る深院の菊 霜は倒る半池の蓮

〈解釈〉奥深い中庭に咲く菊は雨にひしがれ、 池の半分を覆うハスは霜に倒されている。

 

 徳島生まれの貫名菘翁【1778(安永11)年~1863(文久3)年】は、江戸後期の儒家・能書・画家。少年時代から画を好み、南画を修得。書は始め北宋の米芾(元章)を学び、高野山で空海や和漢の名蹟を研究。その書法を統合して独自の書を大成した。

 1曲ごとに落款があることから、複数の杜甫の詩からの抜粋を、六曲一双の屏風に仕立てたものと考えられる。

明治維新の志士たちの筆跡

徳川慶喜文章千古事江戸後期 1846(弘化3)年 

〈釈文〉文章千古事 得失寸心知
文章千古の事 得失寸心知る の前半。杜甫の詩『偶題』からの抜粋。

〈解釈〉文章は永遠で不朽だが、その作品の良し悪しは作者の心だけが知っている。

 

徳川慶喜【1837(天保8)年~1913(大正2)年】は徳川家茂を補佐したのち徳川15代将軍となるが、幕末の内憂外患に直面して1867(慶応3)年に大政を奉還。1868年に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡して水戸に退く。駿府に隠棲し、後、公爵となった。

西郷隆盛書簡幕末 

 西郷隆盛【1828(文政10)年~1877(明治10)年】は、薩摩藩主・島津斉彬の知遇を受け江戸に出て仕え、薩摩藩の代表になると坂本龍馬の仲立ちで長州藩の木戸孝允と薩長同盟を結んだ。討幕運動の中心人物となり戊辰戦争を遂行するが、江戸城を攻めるときには幕府側の勝海舟と話し合い、無血開城を実現させて江戸の町を戦火から守った。新政府の陸軍大将・参議をつとめるが、征韓論政変で下野。帰郷して私学校を設立し、1877(明治10)年、私学校党に擁されて挙兵した「西南戦争」に敗れ自刃。
 隆盛は、柔軟な筆触で粘っこい字を書いた。文字のバランスや全体の構成には全くといっていいほど無頓着で“無法の書” とでもいうべき作風だが、豪放で力強い。※この書状の内容については現在解読中。

幕末の三舟

幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣 勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3名は、名前に舟がつくことから幕末の三舟と称される。いずれも江戸城の無血開城と深い関わりがある。

勝海舟漢詩1885(明治18)年 

〈釈文〉大丈夫 處其厚 不居其薄 處其實 不居其華

      乙酉初夏 海舟

 

以って大丈夫は、其の厚きに処(お)りて、其の薄きに居らず。其の実に処(お)りて、其の華に居らず。       老子『道徳経』第38章からの抜粋

 

〈解釈〉偉大な人は道徳の中心にいて離れたところにいない。つまり、実を大切にして外見にとらわれない。だから、仁義礼をやめて道徳を取る。

 

勝海舟【1823(文政6)~ 1899(明治32)年】は、戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、新政府軍代表・西郷隆盛との話し合いで江戸総攻撃を中止させ、江戸城を無血裏に明け渡した。明治維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。海舟の書は、筆を斜めに入れ、書きながらひねる、ひらりひらりとまるで舞っているかのようである。

高橋泥舟<「宝祚之隆天壌無窮」

高橋泥舟宝祚之隆天壌無窮幕末

 江戸幕府の臣下・高橋泥舟は、槍術に秀で、講武所(砲術・槍術・剣術・弓術を習得させる為に設けた講習所)の教授となった。山岡鉄舟の義理の兄にあたり、鉄舟、勝海舟と共に幕末の三舟と称される。江戸城の無血開城に尽力した功績は大きく、明け渡し後は徳川慶喜を護衛したという。

 明治になり、東京に隠棲して書家として暮らした泥舟。本作品は筆を力いっぱい紙に押し付けたまま引きずるようにして書かれている。 『宝祚之隆 天壌無窮』とは古事記・日本書紀の一節で、「天皇の御世の繁栄は天と地のように無窮のものなのです」との意である。

高橋泥舟1867(明治元)年頃~1903(明治36)年 

〈釈文〉おほぞらに
     そびえて高き
      ふじのねに
     猶あらかねの
      つちははなれず

 

〈解釈〉大空に高くそびえている富士の峰は、土から離れた存在ではなく、地上の土に繋がっている。

 

 高橋泥舟【1835(天保5)~1903(明治36)】は長男・山岡静山に就いて槍を修行し、神業に達したと評されるまでになる。母方を継いで高橋家の養子となるが、生家の男子がみな他家へ出た後で静山が27歳で早世した為、妹の婿養子で門人の小野鉄太郎(山岡鉄舟)に山岡家を継がせた。
 勝海舟が江戸城明け渡しの交渉にあたり、西郷隆盛への使者としてまず選んだのは誠実剛毅な泥舟だったが、泥舟は慶喜の側を離れるわけにいかなかった。そのため代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦し、この大役を果たさせた。江戸城明け渡し後、泥舟は徳川慶喜を護衛。明治になると東京に隠棲し、書家として暮らした。
 泥舟の草書は、紙に筆を付けたまま引きずるようにして書かれている。

山岡鉄舟漢詩1867(明治元)年頃~1903(明治36)年 

〈釈文〉南園露葵朝折  東谷黄梁夜春
 南園の露葵(ろき)は朝(あした)に折り 東舎の黄梁は夜に舂く。

                  王維の詩『田園樂』其七からの抜粋

 

〈解釈〉南園の葵は露のやどる朝に摘み、東の家では夜毎に粟を舂いている。

 

  山岡鉄舟【1836(天保7)年~ 1888(明治21)年】は江戸に生まれるが、父 小野朝右衛門の飛騨国21代郡代(1845年~1852年)赴任に伴い、9歳から16歳までを高山で過ごす。その間、北辰一刀流・井上清虎に剣を、弘法大師流入木道51世・岩佐一亭に書を学ぶ。15歳で入木道52世を継ぎ、一楽斎と号す。父の死により江戸に帰り、幕末~明治の幕臣となる。(高山市宗猷寺にある両親の墓碑は鉄舟の文字。)江戸城明け渡しの交渉にあたり、勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に赴き、単身で西郷と面会した。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれることとなった。明治維新後、鉄舟は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
 鉄舟は、肉太な線を駆使した躍動的で気魄に満ちた書を書く。

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