収蔵品「日本画」

こちらのページでは収蔵作品の中から「日本画」の作品をご紹介いたします。

収蔵作品は作品保護のため通年展示されているわけではございません。

横山大観「不二霊峰」

横山大観不二霊峰1936(昭和11)年頃

六曲一双の金屏風。左隻右寄りに雪を戴く富士、その手前に両隻に渡って松林が描かれている。大観は大正から昭和にかけて、しきりに富士を描いた。「富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ。心とは、畢竟人格に他ならぬ。それはまた気品であり、気魄である。富士を描くということは、つまり己を描くことである。己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには理想を持って描かねばならぬ。私の富士もけっして名画とは思わぬがしかし、描くかぎり、全身全霊をうちこんで描いている」大観はこう述べている。

「行く春」横山大観

横山大観行く春明治33年

大阪の旧家が所蔵し、その後長いこと所在不明だった作品。平家物語の祇王を描いたものと考えられる。祇王は白拍子の名手として名高く、平清盛の寵愛を受けて栄えるが、同じ白拍子の仏御前を清盛に取りもったところその座を奪われ、剃髪して出家することとなる。旧暦3月の出来事と言われる。

 

同時期に菱田春草が、秋に出家して祇王の後を追う仏御前を描いていることからも、桜の花びらが舞い散るこの絵はおそらく、仏門に入る決意を固めた祇王の姿を描いたものであろう。

上村松園「四季美人図」

上村松園四季美人図1892(明治25)年

女の一生を、四季になぞらえた4人の女性で表現した作品。15歳の松園は1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会に『四季美人図』を出品。竹内栖鳳や山元春挙等と並んで一等褒状を受け、さらに英国のコンノート殿下に買い上げられるという栄誉に浴した。また、1892(明治25)年にも『四季美人図』を制作し、シカゴ万博で2等賞を受賞している。本作品も同年の作。本格的に絵の修業をはじめた10代の松園が、繰り返し取り組んだ画題である。

菱田春草「瀑布(流動)」

菱田春草瀑布(流動)1901(明治34)年

本作品は、明治34年6月22日、日本美術院主催で行われた第7回絵画互評会(課題は『流動』)に出品され、一等賞を得た作品である。当時の春草は、師・岡倉天心の薦めで横山大観、下村観山らと共に輪郭線のない“朦朧体”の技法の確立に腐心していた。橋本雅邦が「静に見するため、鮮色なく、亦佳なり。色も揃へり。」と批評したように、水の流れや楓葉の舞い落ち行く様が、抑えられた色調の中で描線を用いず巧みに表現されている。

上村松園「美人納涼図」

上村松園美人納涼図大正時代

松園は若い頃、祇園井特や山口素絢など京都の18世紀末の絵師の美人画を盛んに研究した。当館所蔵『美人之図』の、着物の褄をとって振り向く芸奴の姿にはその影響が見て取れる。

振り向き加減は同じだが、この絵の女性は丸髷を結い、右手で褄をとっていることから市井の女性であることが分かる。うちわを持つ女性、納涼という画題や描き方などから大正時代の作と思われる。

「美人之図」上村松園

上村松園美人之図昭和12年

祇園井特(18世紀末から19世紀初めにかけて京都で活躍した町絵師)の『美人図』から強い影響を受けているが、松園は井特のアクの強さを排除し、意地や張りのある芸妓に昇華させている。

松岡映丘「住吉ものがたり」

松岡映丘住吉ものがたり大正~昭和13年

『住吉物語』は作者不詳の平安時代の物語で、現存するのは鎌倉時代初期の改作といわれている。実母を亡くした中納言の姫君は、求婚者が現われるとその都度継母に妨害されていた。たまりかねた姫君が尼である実母の乳母を頼って住吉へ身を隠すと、求婚者の少将は方々を探した末に住吉に参籠して夢のお告げを聞き、姫君と再会する。2人は都へ帰って幸せな結婚生活を営み、継母は落ちぶれて死ぬ。という典型的な継子いじめの物語であり、長谷観音の御利益を唱導するものである。

土佐光起「はは木々」

土佐光起はは木々江戸前期(寛文頃)

源氏物語に直接取材したもの。『はは木々(帚木)』は源氏物語の巻名。光源氏17歳のある五月雨の夜、源氏のもと に集まった男たちが世の女たちの様々な生き方を談義し合う。この「雨夜の品定め」によれば、中流層の自由な家庭環境が 意外にもすばらしい娘を育てるという。翌日源氏は中川の紀伊守邸で、中流層のうら若い後妻、空蝉と出会って契りを結ぶ。しかし、空蝉は再び逢ってはなるまいと心に決めるのだった。
 詞書には、色めかしくも、またもの悲しくも見える明け方の月を見ながら、文を通わせることも、逢うことさえ叶わぬ空蝉に想いを馳せる光源氏の様子が書かれている。

村上華岳「牡丹図」

村上華岳牡丹図大正10年

華岳は「牡丹の威厳荘重濃穣華麗なること、古代宗教画のようである」と述べ、生涯に実に多くの牡丹を描いた。前期の作品がこの図のように華麗な色彩画であるに対し、晩期のそれは蒼古とした水墨画であるが、どちらも牡丹の花の豊麗さと潤いを見事に描きだしている。

「三美人之図」上村松園

上村松園三美人之図明治41年

松園は格調高い近代美人画の完成者とされ、自画像的な厳しさと浪漫性との統合に特色を示した。
 親しく内緒話でもしているかのような二人の女性、その後ろにもう一人隠れているかのような構図がおもしろい。芸子と思われる女性の着物が、実に艶やかである。

「紫式部図」上村松園

上村松園紫式部図大正4年~昭和4年頃

松園は1933(昭和8)年に高松宮家の新築御祝品として徳川家の依頼で『月と花』を制作した。左幅に月と紫式部、右幅に桜と伊勢大輔が描かれた双幅の作品だが、現在その所在は明らかではない。本作品はその紫式部に絵柄が似ており、何らかの関連があると考えられる。松園の絵には珍しい下ぶくれの顔は『源氏物語絵巻』などに見られる平安美人に倣ったためであろう。装束の柄も『紫式部日記絵詞』に描かれた紫式部のものと同じである。

横山大観蓬莱山昭和14年頃

蓬莱山は中国の神仙思想で説かれる霊山のこと。渤海のはるか東にあり、仙人が住み、不死の薬があり、玉の宮殿があるとされる。古来より画家が好んで取り上げたテーマであり、師・岡倉天心から東洋哲学や東洋思想の重要性を教えられた大観も幾度となくこれを描いている。

速水御舟牡丹睡猫大正15年

速水御舟は日光東照宮を訪れ、左甚五郎( 江戸時代の彫り物の名人)の作と伝えられる宮彫( 宮殿や寺社などの欄間・柱などに施す彫刻)の『眠り猫』に感銘して『牡丹睡猫』を描いたといわれている。

川合玉堂山村積雪明治末頃

玉堂は明治32年6月の手紙に「ただただ小生は本邦絵画の為、大いに心胆を練磨し、一新機軸を作為し」「泰西美術を凌駕して真に日本絵画の発達を期す者なり」と記している。西洋絵画からも影響を受けながら、自己の芸術信念に基づいて日本の原風景を描いた作品である。

横山大観秋の月明治33年頃

大観の作品に女性を描いたものは少ない。まして1900(明治33)年といえば大観は菱田春草と共に、輪郭線を用いない朦朧体という手法で多くを描いていた時期であり、珍しい作品と言える。大観が生涯手放さなかった春草の作品『秋の夜美人』との関係性が伺える。

横山大観海浜明治36年

菱田春草と共にインドを旅した年の作である。この頃大観は、縦画面でかなりの数の海を描いている。大観は、伝統的な日本絵画では意識されなかった大気や光の表現を目指し、終生千変万化する自然の様子をいかに表現するかに腐心したが、そうした大観にとって刻一刻と表情を変える海や空は格好の題材であった。

横山大観怒涛明治34年頃

朦朧体で描かれている。朦朧体とは輪郭線を描かず、絵絹に絵の具を置き、空刷毛で色面をぼかしていく画法のこと。岡倉天心の「空気を描く工夫はないか」という難題に答えて大観と春草らが生み出したもの。朦朧体の試みは1900(明治33)年から本格化した。これにより、線で表わすことが難しかった光の拡散する様子や、空気を感じさせるような表現が試みられた。日本の湿潤な風土をとらえるにはうってつけだったが、色を混ぜ合わせてぼかしの効果を出すため、色彩の冴えや形の明確さが失われた。当時の美術界ではほとんど理解されず、西洋かぶれと批判され、朦朧体という呼び名も侮辱の意味を込めて付けられた。

横山大観月下の雁大正2年頃

1913(大正2)年9月2日、恩師・岡倉天心が新潟県の赤倉山荘で没した。その頃の作品である。
 大観の人とその芸術は、天心なくしては語れない。天心が大観を生んだと言っても過言ではないだろう。先頭の雁が天心で、後を追う大観らを表現したものとも考えられる。

横山大観春光昭和10年頃

1930(昭和5)年に描いた『夜桜』は特例として、大観の描く桜は大方山桜で、派手に描かれることはない。大和心の象徴としての桜であり、日本の風土への深い愛着心を込めてこれを描いている。

上村松園わか葉頃昭和14年頃

この絵と同じパターンで、わか葉を桜や紅葉などに置き換えた作品がある。また、松園の絵には同じ構図で着物の色や柄、髪型や髪飾りの違うものも多数存在する。
 女史の画業を高く評価していた画家の一人鏑木清方に対して松園は「私など一生姉様遊びをしていたようなもの」と語ったという。美人画一筋の人生を謙遜した言葉であろうが、その言い方には素直な実感がこもっている。美人画の着せ替えともいえる作品である。

上村松園木陰唐子昭和14年頃

庶民的な支那の母子図である。野の花を摘んで誇らしげに見せる唐子、母におぶわれた子がしきりに手を伸ばしている。
 落款に「松園女史」とあることから明治期の作品と思われるが、松園の明治期の唐子図に子供がおぶわれたものは見当たらない。また、箱書の落款は晩年のものである。
 松園は昭和16年に日本画家・三谷十糸子を伴って支那に慰問旅行に出かけた。帰国後に描いた「愛児」という作品に共通するものが感じられるこの作品は、晩年に松園が描き改めた作品だとも考えられる。

上村松園夏の美人明治28年~大正13年頃

玉結びという髪型の、涼しげな着物を着た美人が大きく団扇を扇いでいる。団扇には水墨で白鷺が描かれ、松園の落款が見える。画中の女性が、画家が絵を描いた団扇を使用しているという面白い設定である。

上村松園初音図大正末期

初音とは、虫や鳥のその季節の最初の鳴き声のことをいう。初音の主に目を向けるのは公家の娘であろう。
 平安時代以降、日本では女子が外出する際、頭から衣を被るという風習が起こった。これを被衣という。この図の女性は被衣の上から更に市女笠を被っている。
 被衣は、はじめは単の衣が用いられたが、近世に入って女子の結髪が大きくなると、頭に被るためのみの目的で作られた。
 また、市女笠は初期には巾子と呼ばれる頂の突出部分が深いが、後に浅くなり、やがて虫垂れ布(顔を隠すだけでなく虫除けにもなる薄い布)が、笠に直接付けられるようになった。

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